[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
悲しい苦しい辛いと思う。この気持ちは一生消えないんだろと。
んで、なんで私は悲しくて苦しくて辛いのか、それが消えないのかその原因と経緯と結果を考えてみる。
そして、私はそれを果たして本当に消したいのかと考えてみる。
──いや、別にー?
だって、一度作った罪は消えないし。罪を励みや勉強にする事は出来るけど、それで罪がまっさらに消える訳じゃない。
だからそれはそれで、もういいんだろう。そういう思いとずっとただいる事が、私がいるという事だろう。
絶望でも投げやりでも無く、静かに穏やかに真摯に。
それだからこそ出来る事も書ける事も、笑う事も強くいる事も出来るだろうしね。
起きた瞬間には覚えてるのだけれど、その後、日常のなかで忘れてしまう夢と、
起きた瞬間には忘れているのだけれど、その後、日常のなかで思い出す夢があって。
その二つの違いが面白い。眠りの深さとか、印象の強弱とかなんだろか。
記憶もそんなものだよね。その場では覚えているのだけれど、すぐに忘れてしまうものと、その場ではそんなに印象が無いのに、その後、のちのちまで思い出すのと。
まあ夢も記憶の一種だもんね。
ところで、最近雑誌とか見ると苺狩りの記事が載ってたりするんですが、私、死ぬまで苺狩りには行けないと思うわ。
ていうのも、別に苺は好きなんだけど(むしろ好物)、たーちゃんが苺狩りに行きたいと言っていて、一緒に行こうね、と言っていたんだけれど、結局色んな事情で行けないままだったから。
また、プリンも食べれません。どーしてもそれは彼女を思い出させる。食べてる間に泣くね。だから私にはプリンを与えないでください。(ここで言っても)
て言っても、別に苺狩りに行けないところで、プリンが食べれないところで、人生には何も影響が無いので、全くだいじょぶなんだけども。
そんなに苦しいという訳でも無く、ただ感情のコントロールがきかなくなりそうだから、そして私はそういうのがあんまり好きじゃないから、選択として選ばないだけ。
ていうか、そんなの誰でも、生きてる人は、ひとつやふたつやみっつやよっつや、あるいはもっとは、抱えてるもんだと思うわ。
傲慢だけれど、まだあなたが健やかだった、そして私も健やかだった頃の姿で。
ごめんなさい。ありがとう。愛してる。愛してる。
今。たーちゃんが入院していた時に、私が設定していた携帯の着音はもうとうに違うものへと変えたというのに、しかしいまだに街のなかでその音や、違う音でも、その音程の連続音を聞くと、体がびくっと頭がぐらっと心臓がぐるっとします。
今日も街でその音が聞こえて、思わずビクリ。
それは俗にゆートラウマ的なものなのでしょが、そしてそれを不快に思うなら、治したりする必要があるでしょが、でも自分的には全然不快じゃないのよね。むしろ愛おしい。
ていうのも、私の体が反射的にそうなる事こそ、私が確かに彼女といた、彼女がいた、証だから。
だから私は全然良いのですが、しかしこれに似た事って、日常のなかで他にもあるよな気がしました。ふと。
快・不快て人によって様々で、他人が斟酌する事じゃないのよね。
だから自分がより良いと思う方に、進めてけばいんだろな。何事も。
そんな事を思ったり。
昨日、そして本日拍手を押して下さった皆様ありがとうございました♪
以下、拍手お返事ですー。