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小説や徒然やALSや。
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たーちゃん退院にあたり、うちに運ばれてきた介護ベッドと呼吸補助の機械です。

本当は寝てる間ずっとこのマスクで呼吸補助を出来ると良いのですが、たーちゃんがこのマスクをつけていると眠れないと訴えるので(ウトウトしている時は結構あるのだけど、熟睡が出来ないそう。まー確かにずっと顔になんかつけてるのは違和感あるだろし、結構機械音が大きいので煩わしいだろなー)寝る前の2~3時間、この機械をつけて体に酸素を送り呼吸の補助をしています。

2、3時間でもつけると、その後体が少しは楽になるとの事で、何よりでおます。
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介護生活を送るようになってから、なんか体に筋肉がつきました。

まー介護ってマッサージとか移動とか、色々筋肉を使う機会も多いからそりゃそだよなーと思う訳ですが、そして私は元々筋肉なんかまるで無い体をしていたので、筋肉がついたと言っても大してついてないんですが、けれど、元々筋肉がぜーんぜん無い体をしていたのでかえってその少しの変化が目立つらしく、お坊さんに「なんか戦士ってゆーか、アマゾネスみてー」とこの間笑われました。

アマゾネスかー。

なんだその比喩、と思いつつ、しかしある意味あってるかもなーとも思いました。

というのも介護生活を送りはじめてから、私のなかには常に脳みその後ろに抽象的なイメージがあって、そのイメージというのが、なぜか、刀でなんかを払っているイメージなんですよね。
その『何か』がなんなのか、敵と認知したものなのか自分のなかの邪心なのか、それとも清める為に払ってんのかはよく解んないんですけど。

なぜか事ある毎にそのイメージが浮かぶのです。

だもんで、介護生活ってある意味戦いで、だからアマゾネスってのも合ってのかもなーと。

ま、けど介護だけでは無く、誰の人生もいつでも常に、何らかの戦いであるもんだよなあとか思うのですが、そう思うあたしは好戦的な性格なのでしょか。アマゾネスなのでしょか。




現在、一日のうちで私がお坊さんと2人だけで過ごす事が出来るのって、殆ど寝る時と夕食の時ぐらいで(それもダメなときもあるし)、それ以外の時間、お坊さんは彼の仕事の無い日はずっと私の用事を手伝ってくれるか私の用事が終わるのを待っていてくれるのですが。

それって彼にとって果たして楽しいのだろか、と果てしなく疑問です。


たーちゃんを置いて外出って出来ないので、2人で映画見に行く事も出来なければ買物行く事も外食行く事もできないし、ぶらっとお茶飲みに行ったり本屋さん行ったり遊び行ったりも旅行も出来ない。

私以外の他の人と付き合っていれば普通に出来る事が一つも出来なく、出かける先と言えば病院とスーパーぐらいなもので。

ふつーに考えて楽しいはずは無い。

シングルマザーの人と男の人が付き合うのも似たよう感じかしらーとも思いましたが、でもやっぱり違うですよね。
だって子供がいても外出も旅行も出来るし、それに男の人はその子供の父親になる事が出来るもんな。
お坊さんが今更たーちゃんの子供になる事は出来ないもの。

およそ『遊び』とゆー遊びは出来なくて、の上に時間もお金もいっぱいいっぱい私やたーちゃんの為に使ってくれて。

私はこの生活は自分で選んだものだから良いのだけれど、しかしそれにお坊さんを付き合わせた、というかもっと言うなら巻き添えにした事だけはすごく申し訳無く思います。

その罪悪感から、私のなかのお坊さんに対する信頼も愛情も、前より増したのは確かだけれど、まあそれは置いておいても私は一生彼に対しては頭が上がりません。

お坊さんは「別に俺がやりたくてやってるからいんじゃないー?気にしなくて~」とは言うのだけれども。そう言われるとなお。

大事にしたいものが複数あるのって幸せでけれど、難しいものですね。

最近、たーちゃんの笑顔がすごく幼く見える事があります。まるで子供とかみたいに。
純粋で、余分なものが何も含まれてない感じ。幼いというか無垢というか可愛いというか、大きいというかある意味凶暴というか。

たーちゃんが髪の毛切った(病院のなかの理容室で。ものすごーい『昭和』な感じの理容室である意味新鮮でした)せいかもなーとも思ったんですが、でもそれだけでもないような。

人間、歳をとると子供にかえると言いますが、そのせいなのかもしれません。
たーちゃんはまだ別に全然歳でも無いですが(53歳)、始まりより終わりが近づいているという意味では歳をとったと言えるのだろう。

その笑顔が私はとても好きです。
私はあんな風に笑えないなあ、と思う。

コトちゃんの主治医の先生から、「コトちゃんは、首から栄養を流し込むカテーテルを入れないともう長くは体がもたないかもしれません」というお話をされました。

首からカテーテルを入れるかどうかは、本人と家族の意思だという事なんだそうなのですが。

しかしこれについておじは「俺が入院している間にもしコトちゃんが死んで死に目に会えなかったらそれは心残りなので、絶対に入れてくれ」という意見で、けれどたーちゃんは「コトちゃん本人も、いつも『もう早くお迎えが来て欲しい』と言っていたし、一種の延命なんだからしないでくれ」という意見で。
コトちゃん本人は「楽になるならやりたいけど、でも首からカテーテルなんて怖い~」という意見で。

三つの意見に挟まれ、実際に主治医の先生のお話を聞いて、承諾書にサインをするか否かの決断に迫られていた私は、ちょっと困ってしまいました。とほー。

ムツカシイですよね、これも。
どこからを治療としてどこからを延命とするか。

だってたーちゃんの胃ろうも呼吸補助機械も、延命と言えば延命な訳だし。
(今ほど医学が発達していなくて自然のままならば、そういった形で緩やかに死を迎えるわけだし)
(そしてALSになっても、胃ろうをつけない人もいるし、呼吸補助機械を使わない人もいるのですよ)

判断は人によって様々だし、それを決められるのは本当は本人だけなのだろう。

そしてカテーテルを入れて命を繋いだところでそれが幸せなのか、否か。
例えばその結果、コトちゃんがおじさんやたーちゃんより長く生きたとして、コトちゃんがおじさんやたーちゃんの死を知るのは幸せなのかとか。


結局、にゅーと悩んだ結果、とりあえず承諾書にサインはして、けれど主治医の先生にうちの事情やおじとたーちゃんの意見をそれぞれ話して「という訳なので、実際にカテーテルを入れるか否かはコトちゃん本人の意見を尊重してください。もし彼女が嫌がるようなら、入れないであげてください」という事を伝えて病院を後にしたのですが。


色んな事を考える、病院からの帰り道でした。

私たちの近くには、いつも幸福も不幸も死も生も容易く転がっているなあ、とか。色々。

朝からたーちゃんの病院で、たーちゃんの介護をしつつ、退院してからの彼女の生活の事を病院の方と話し合い、それが終わってからコトちゃんの病院で、こんな感じで、もう夜に落ちた車の外を眺めていると、ぽわっとした疲労から、思わず「あー何故この家は何もかも私が段取りつけて決めてかなならのんだろお…」とか思わず後ろ向きな事も考えてしまい、けれどそう思った直後に「でもまー二十台のうちにこういう事やっとけば残りの人生は結構楽に進めるんじゃないかしらー」とも思ったり。

とりあえず、この判断があってるかどうかそれはよく解らないけれど、決断したのは私だから、きちんと責任を取りたいです。


車のなか、たーちゃんの病院にもコトちゃんの病院にも送迎してくれたお坊さんが「お疲れ様~。しかし、ほんっともーなんつーか、お前のとこの家の男は頼りにならんな!」と笑うので、私も思わず笑ってしまいました。

そー。だから私は君を選んだのだと思うよ。

私が心から頼りに出来る人を。

で、私自身は『頼り』になるものでは全然無いんだけど、けれどなんていうか、そういうものに成長したいと思うからそうするというか、とりあえず自分のやるべき事をやらないと落ち着かないというか、人の姿勢として美しくないと思うのよね。
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