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また、ネットで知り合わせて頂いた医学の道を志す方のブログで、その方がたーちゃんの死で何かを感じて神経の勉強をして下さったという記事を読んで、それはなんかすごい有難い事だなあ、とこちらも感動したり。
最近連絡を取っていなかった友達や知り合いから、連絡をもらったり。
たーちゃんの葬儀に関してすごく色々良くしてくださるたーちゃんの昔の知り合いの方だったり。
そんな風に、たーちゃんが亡くなって、葬儀が終わって、時間が過ぎて、思うに、こういう時だからこそ、誰かの人間性だとか誰かと誰かの関係性が解るもんだよなーと思います。しみじみ。
この人は自分が思うより自分を思っていたくれたのだなあ、とか。
この人は私が知るより、たーちゃんを大事に思っていたくれたのだなあ、とか。
あの人は別にそんな親しい訳でもなかったのだなー、とか。
お葬式とか、後は多分結婚式とかもそだと思うんだけど、そういう節目って自分や誰かの人生を改めて客観的に見える一つのきっかけなのですね。
あんまり冠婚葬祭の儀式とか形式にはあんまり興味無いーと今までは思っていたけど、そういう意味、こういうのは重要なのだな。昔から続くものにはやはり意味があるのですね。(何を今更)
君がいないとしてもそれでも、君が生まれた日は嬉しいままだから。やはり、とても。
君がいなくなるより僕がいなくなったほうが世界は美しいままだったのに。遥かに。
そうしてこの世界は作られるのね。
私が料理をしている間に、いつもお坊さんが洗濯物をとりこんで畳んでくれるんですが(ちなみに私が畳むより全く綺麗)、そんな時ふと。
「なんかさー、洗濯物のなかにたーちゃんのパジャマとタオルが無いってのが違和感。変な感じ。洗濯物が少ないってのは寂しいなあ」
お坊さんがしみじみ言いました。
そうなんだよねー。
私も未だ、たーちゃんが病院で私が来るのを待ってる気がするし、病院から電話がかかってくる気がするし、朝、「はっ!早く病院行かなければ」と4時ごろ目が覚めるもの。
昼間に病院以外のとこにいるのも違和感だし、こうしてパソコン打ってるのも違和感だ。
深い違和感と深い罪悪感。
それがいつかは消えるのかもだし、このまま消えないのかもだし、消えなくても良いような気もする。
とりあえず、これからも月に一回くらいは病院に行こうかー?と話し合ううちら。
───何しに……?
いや、こー、なんとなく。目的も無く。
ただ、このまま病院行かないのが寂しいというか、違和感なんす。そんぐらいずっとあの病院には通ったので。
私、10年も一緒にいるのに今までお坊さんの泣き顔って一回ぐらいしか見たことなかったのですが(というのも、彼は私に比べれば感情の起伏がなだらか人だから)たーちゃんが亡くなった後は、お坊さんの泣いてる姿を何度も見ました。何度も何度も。
有難かったです。
そしてわしも泣きすぎて目が腫れて、一重に。
超化粧しにくいー。うがー。
美しいその人をついには殺したあたしが、いくら美しい事を書いてもそんなのちゃんちゃらおかしいわー、ていうかまるでウソだわーなんて。
そんな事を思ってみるも、多分また3カ月後とかには違う認識の元、違う事を考えてんだろね。
燃やされる前のその人は、やはりひどく美しかった。
そして私は美しいままではいられなかった、とても。