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以前読んだ本に、人が持つ良心とか良識とかいうものは、外国はその根本に宗教があるけれど、無宗教者が多い日本人にとって、その根本に何があるのかと言えば、それは「恥、外聞、世間体」というものだ、というのがあって。
良心とか良識、道徳観念において考えれば、日本は、「恥」の文化で、外国は「罪」の文化なのだと。
日本人は「恥」というものを感じて「外聞、世間体」の為に良心や良識を感じる。
だから日本人は、誰も自分を見ていない所、もしくは誰にも自分の身元がばれない所(=恥を感じずにすむところ)では、良心や良識を捨ててしまう人もいる、というのがあって。
まあ、確かに、神様はいつでもどこでも自分を見てるけど、だから「罪」はどこでも起きるけど、「他者」が介在しないとこでは、「外聞」や「世間体」が無いから「恥」も無いですもんね。
昔から「旅の恥はかき捨て」とかも言うし。
だから、誰も見てなければ、車椅子マークのついた駐車場に平気で車を停めるめっちゃ元気そうな人とか、こそっと捨てちゃいけない日にゴミを捨てちゃう人とか、乱暴で失礼な運転をする人とか、まあ他にも色々、他人の事を考えないで他人を傷つけるような事をする人もいるのかなあとは思うけど。
でも、さー。
誰が見てなくても、恥って感じるものなんじゃないのだろうか。
他人が見て「うわ、あの人恥ずかしい」と思われるのも確かにヤだけど、それよりも何よりもそーゆー事してる自分の姿を、もう一つの客観的な自分の眼で見たら、それが何より誰に見られるより恥ずかしくは無いのだろうか。
自分に恥ずかしいよ。
今まで何年か、それでも懸命に生きてた自分に恥ずかしいよ。自分に申し訳が無いよ。自分で自分を貶めてるよ。
神様もそーだけど、自分は常に自分を見てるよ。他の誰が見て無くても。
と、私は、個人的に思うのだが、どーなんだろうか。
と。
晴れた昼下がり、ショッピングモールで、車椅子マークのとこに平気で車を停めてる若いカップルを見たり、自分が好きなブログさんのコメ欄にあった心無い(と、私は感じた)書き込みを読んでしまったり、高齢者虐待のニュースを見たりしてたら、なんだか異常に凹んでしまって、ふっとそんな事をツラツラと思ったりした私でした。
まーでも、そういう事をする人にはその人なりの事情があるのだろうな。
誰かを思いやれなかったりする人は、誰かに思いやられなかったりした事がきっとあって、誰かに毒の言葉を吐く人は、誰かに毒の言葉をぶつけられた事が、きっとあって。
でも、それをまた自分が他人にぶつけてたら、それはいつか自分のとこに返ってくるよ、負の連鎖は終わらないよ、だったらそれは自分のとこで止めたほーがいんじゃないの、とは思うけど。
自分が世界に優しくしてたら、自分を取り囲む世界も優しいものに変わってくるよ絶対、とは思うけど。
でもこれも人それぞれの感じ方ですしね。色んな考え方の人が世の中にはいて、それが当然で、それこそが世界のあるべき姿なんだろな。
汚くて美しい、私たちの住む世界の。
勿論、自分にだって汚いとこもみっともないとこもたくさんあるしなあ。ええ、恥の多い生涯を送って来ましたよ。(by太宰)
けどしかし、高齢者虐待のニュースとかはほんと自分、泣きそうになります。私の脆いトコにぐさっとくるのです。だめだ。