[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ウチのお坊さんと「今度選挙の展望は。そしてどこに誰に入れるか」という話をしていたら気付いたら一時間も喋ってました。
その話題だけで一時間。しかもまだまだ話は途切れず。語りつくせないです。
語りつくせない熱い話題、と言えば大相撲。こちらも一応、決着はついたのかもしんないけど…けど、個人的には気に食わん。って一ファンが偉そうなんですが。
でも、もし肩代わりが本当なら琴光喜が気の毒だ、というか、罰の差がありすぎる、というか、名古屋場所やりたい為のトカゲの尻尾切りにしか思えん。ていうか。
貴乃花親方提案の、「幕下からやりなおさせる」というのを、是非実現させて欲しかったなあ。勿論、これは何にも知らないファンだからこそ言える、勝手な感想なのだけれど。
信頼・信用とか裏切りとかって言葉ってよく聞くけど、それもなんかなーと思う最近。
これは政治やファンとしての話だけじゃなく、対人・対物関係全般として。
ていうのも信頼って、それは自分がそこに至るまでの過程が大事なんであって、「私はあなたを信頼する」って思えるまでの過程が大事なんであって、その先はさして重要じゃないように私は思うから。
裏切られた!って言葉って、自分が信頼に足らない相手を信用してしまったとゆー、自分の見る目の無さを露呈してる気がする。
また、信用する相手(やその態度)がもし変わったのなら、何か相手には不可抗力な事情があったのかもしれないし、そうさせたのは自分自身かもしれないし。
大して信頼もしてなかったのに、「裏切られた」とか言ってみるのは更に美しくない。
それは政治でも誰かを応援する気持ちでも、対人関係でも仕事の関係でもそうだけど。
信用って「お前に騙されるとしたらむしろ本望!」て思える相手にするものだよねって思うんだけど。
だからその意味で、もう「信頼できる」と思えた時点で、役割は果たしているような。
その覚悟とか信念とか、また、自分の至らなさを見ないで「裏切られた裏切られた!」て声高に叫ぶのは、個人的に好きくない。
例えばお坊さんが浮気したとしても、例えば大好きな親友や尊敬する先輩となんかトラブルがあったりしても、私は「裏切られた」とは思わないもん。むしろ本望。
って、まあ、そういう話をしてると、今度は二時間ぐらい経ってます。はははー。議論好きなうちら。
傍から見たら、酔っ払ってクダまいてるおっさんみたいかもしれません。
まあ感じ方はそれぞれだし。
反対に言えば、そこまでいかないと誰かや何かを信頼できない私は、=疑り深いって事なのかもしんない。
何気なく「裏切られた」って言える人は、その分無垢で純粋な方なのかもしんない。
そしてそれは、尊いことなのかもしれない。